Last Updated 2010.08.01

日本の公園史

●もくじ


このページについて

公園史概略

年表
 明治
 大正
 昭和(終戦以前)
 昭和〜平成(終戦以降)

むすび

参考資料


●このページについて


当保存館の主役は滑り台ですが、その主な舞台となるのが街区公園(児童公園、小公園)です。
このページは、日本の公園史を街区公園を軸に年表としてまとめ、公園遊具の導入過程を少しでも明らかにできないかとの考えにより、作成を試みています。

「街区公園を軸に」と書きましたが、実際には都市計画という大きな枠組みがあり、 更に、教育・厚生・公安・人物・法律・国家・実社会、様々な要素が関連しています。
当ページの年表は、東京で起きた事に偏っています。これには、戦前の中央集権的国家による計画が、まず 帝都である東京を手始めに行われ、東京を雛型に各地方都市へと導入されていったという経緯。そして 自分の勉強不足により、地方における公園整備状況の情報が不足していることにもあります。
また、残念ながら、当初の目的(公園への遊具の導入過程を明らかにする)は現在のところ果たされていません。

日本の公園・緑地をめぐる都市計画史の入り口…への案内図…に張り付いた付箋のようなものとして、当ページを利用いただければ幸いですが、 年代毎の事柄の選択、事柄に対する注釈は、基本的に私の主観です。
資料的正確さ、客観的視点を望む方は、当ページ末尾にまとめた参考資料を手がかりとする事を推奨します。

滑り台保存館管理人、酉


●公園史概略


明治期
 法制度としての公園の誕生
 神社境内、名勝等、既存の土地が公園へと組み込まれる
 近代的な都市計画に基いた公園計画が立案され、一部が実現する
 欧米を規範とする洋風公園が各地に造園される
 衛生装置、都市の美装としての公園への期待
 国家的催事・儀礼を執り行う空間メディアとして公園を活用
 都市計画における児童専用公園の誕生

大正期
 欧米の都市・公園計画が研究され、日本の都市計画に適用される
 福祉行政の立場による児童遊園の誕生
 震災復興事業(震災復興小公園の誕生)
  小学校の敷地に隣接し、相互に出入り可能な形で設計
  滑り台、ジャングルジム、砂場など、今日もみられる遊具を設置
  児童公園(街区公園)の雛型といわれる
 緑地思想の萌芽
 福祉行政における児童遊園の誕生

昭和、戦前〜戦中期
 国立公園法公布
 東京における環状緑地帯の計画
  永続的に維持される都市施設としての緑地
  防空緑地、市街地膨張の抑制装置としての活用
 法律用語としての緑地の誕生

戦後〜現代
 児童福祉法公布
 農地、宅地、道路などへ転用されていく、かつての緑地
 児童公園、近隣公園を重視した公園・緑地行政
 ベビーブームの到来
 都市公園法公布
 法律用語としての緑地の終焉、市街化調整区域の誕生
 児童公園を街区公園へと名称変更
  ぶらんこ・すべり台・砂場等の設置の義務づけを廃止


●年表


明治

・1870年(明治3年) 山崎直胤、フランス留学

・1871年(明治4年) 長与專齋岩倉遣欧使節団として渡欧
 ドイツ、オランダの医学及び衛生行政を視察

・1871年(明治4年) 慶応義塾、運動場に遊具設置
 ブランコ、シーソー、鉄棒など

・1873年(明治6年) 太政官布告16号
 制度としての公園の誕生
 社寺境内、名勝等の公園化(土地管理上の峻別目的)
 明治天皇、上野公園開園式への行幸

・1875年(明治8年) 長与專齋、内務省衛生局初代局長就任
 衛生工事の推進、衛生思想の普及に尽力
 「衛生」の語はHygieneの訳語として長与が採用したもの。

・1876年05月(明治9年) 上野公園完成

・1876年05月(明治9年) 東京女子師範学校付属幼稚園に滑り台設置

・1877年05月(明治10年) 上野公園にて第1回内国勧業博覧会開催

・1879年(明治12年) 上野公園に遊器具設置
 体操場、木馬、梯子

・1883年(明治16年) 大日本私立衛生会設立

・1884年(明治17年) 大日本私立衛生会、柴田承桂の常会での主張
 市区改正を見越した公園の必要性
 健全なレクリエーションの場
 教育、学校衛生と連動した運動場として

・1885年02月(明治18年) 市区改正審査会開始
 都市計画としての公園計画、公園論のはじまり
  ナポレオン3世第2帝政期、パリの市街地改造を規範とする
  「欧化論」に基づく都市の美装…山崎直胤
  「都市の肺臓」、衛生換気装置としての公園の提言…長与專齋
  「防火装置」として…小野田元熈
  「集会監視」の為、派出所・警察署に隣接させる…小野田元熈

・1886年(明治19年) 「学校令」公布
 兵式体操の導入
 兵式体操用器械として「鉄棒」などを導入

・1888年(明治21年) 東京市区改正条例公布
 名称をPark、Square、Gardenの区別なく「公園」に統一
 名所旧跡、神社境内の公園化
 御料林、上地官林の公園編入

・1888年10月(明治21年) 明治宮殿(皇居)竣工
 宮城前広場(皇居外苑)の整備

・1889年02月(明治22年) 大日本帝国憲法発布

・1889年05月(明治22年) 市区改正委員会成案決定
 49公園330ヘクタール

・1889年(明治22年) 坂本公園開園
 長岡安平設計
 都市計画に基き東京で具体化された最初の小公園
 敷地内に茶店がある和風庭園

・1890年(明治23年) 本多静六、ドイツ、ミュンヘン大学留学
 〜1892

・1890年(明治24年) 清水谷公園、湯島公園開園
・1891年(明治25年) 白山公園開園
 明治期に実現した小公園

・1894年7月(明治27年) 日清戦争開戦

・1895年3月(明治28年) 日清戦争終戦

・1899年(明治32年) 福羽逸人ロシア・フランス出張

・1900年(明治33年) 福羽逸人、パリ万国博覧会出張(出展園芸物の審査)
 ベルサイユ園芸学校校長アンリ・マルティネに新宿御苑計画指導を依頼

・1901年(明治36年) 日比谷公園仮開園
 東京市吏員5名(氏名不明)による設計案
 ベルトラム「庭園設計図案」を参照し、本多静六実施案作成
 衛生面で石黒忠恵、花壇を福羽逸人及び松村任三、他多方面の助言
 小沢圭次郎による日本庭園部分案は保留(実現していない)
 エンデ・バックマンの官庁集中計画の"Public Garden"思想を継承
 ドイツの公園を模範として計画された、日本最初の洋式公園
 児童遊戯地区の設置
 音楽堂
 首カケ銀杏
 煙害に強いクスノキ

・1903年(明治36年) 市区改正新設計
 22公園 220ヘクタールに減少

・1904年2月(明治37年) 日露戦争開戦

・1905年9月(明治38年) 日露戦争終戦

・1906年(明治39年) 新宿御苑開園
 アンリ・マルティネ設計、福羽逸人実施設計
 欧米の概念における日本の初の"Park"
 皇居苑地であり、国民公園としての開放は1949年

・1906年4月(明治39年) 日露戦争凱旋大観兵式挙行
 青山練兵場、宮城前広場、市区改正道路
 市区改正道路(凱旋道路)の開通式を兼ねた軍隊の行進
 宮城前広場にて戦利品である武器陳列

・1908年(明治41年) 東京市役所「公園改良委員会」設置
 児童専用の公園として、御茶ノ水公園(現宮本公園)開園


大正

・1914年8月(大正3年) 第一次世界大戦への参戦

・1914年(大正3年) 明治神宮内外苑連絡道路(表参道、裏参道)
 折下吉延藤井真透設計
 日本におけるパークシステム最初の具体例
 1926/09風致地区指定

・1918年11月(大正7年) 第一次世界大戦終戦

・1918年(大正7年) 福田重義、「新東京計画」提案
 パークウェイ(ParkWayBoulevard)の提案

・1919年04月(大正8年) 都市計画法、市街地建築物法公布
 池田宏佐野利器内田祥三笠原敏郎起草
 地域性(ゾーニング)制度の創設
 都市計画に基づく公園計画
 公園整備を全国的に行う法的根拠
 風致地区制度の導入
 土地区画整理事業を取り入れる、施工面積の3%以上を公園として留保
 市街地建築物法により美観地区の導入

・1919年05月(大正8年) 折下吉延、欧米視察

・1919年月(大正8年) 「東京府下における公園並に児童遊園の調査」
 東京府庁社会課

・1919年月(大正8年) 「府下における公園並に児童遊園の調査付其に対する改善意見」

・1922年月(大正11年) 日比谷公園内の児童遊園での遊戯指導開始
 矢津春男、東京YMCA職員、東京市嘱託

・1922年月(大正11年) 「御蔵前児童遊園」開園
 東京市社会局による
 都市計画によらない、厚生省所轄の児童遊園の原型

・1923年09月(大正12年) 関東大震災
 安全な避難地、延焼防止帯としての公園・緑地の重要性の認識

・1923年11月(大正12年) 帝都復興事業、帝都復興員評議会設置
 震災復興公園の誕生
  6つの大公園(国による整備、折下吉延)
  52の小公園(東京市による整備、井下清)
 都市計画用語としての「緑地」の(日本における)誕生
 日本の都市計画に対するパークシステムの本格的な適用
 焼失区域の小学校用地を拡張し児童公園を整備

・1924年5月(大正13年) 同潤会設立

・1924年(大正13年) フリッツ・シューマッハ−による復興計画の評価
 佐野利器の求めによる
 緑地政策の不備、復興公園の僅かさを指摘
 緑樹地帯新設の提案


昭和(終戦以前)

・1928年(昭和3年) 「統合都市計画」(大阪市)
 大阪市長、関一
 建築地域と、建築を許可しない地区への分割の提案
 実用的利用を目的とする「空地」維持の重要性の提案

・1931年9月(昭和6年) 満州事変

・1931年(昭和6年) 国立公園法公布
 アメリカの国立公園を範とする

・1932年10月(昭和7年) 東京緑地計画協議会発足
 北村徳太郎発案

・1939年4月(昭和14年) 東京緑地計画決定事項
 景園地…37、28万9143ヘクタール
 行楽道路(緑道)…180路線、3884キロメートル
 環状緑地帯…1万3623ヘクタール
 大公園…40、1681ヘクタール

・1940年4月(昭和15年) 都市計画法改正
 永続的に維持される都市施設として緑地を位置付け
 法律用語としての緑地の誕生

・1940年4月(昭和15年) 東京市市民局公園課「公園児童掛」設立
 市内180の児童公園を巡回し児童を指導
 子供会開催
 月毎の年中行事での指揮監督

・1941年2月(昭和13年) 太平洋戦争開戦

・1943年3月(昭和18年) 防空空地指定の告示

昭和〜平成(終戦以降)

・1945年8月(昭和20年) 太平洋戦争終戦

・1945年11月(昭和20年) 「戦災地復興基本方針」閣議決定
 市街地拡大の抑制、制御の観点から緑地帯を導入
 広幅員街路の幅は概ね50M以上
 土地利用計画に基き公園を系統的に配置
 緑地面積を市街地面積の10%以上とする

・1946年09月(昭和21年) 戦災復興の為の「特別都市計画法」公布
 1防空空地帯(緑地)に以下を包含
  市街地の膨張抑制、家屋の連坦防止の必要がある土地
  水田、良畑、山林等、特殊農業用地
  池沼、河川、海浜その他水産業用地
  樹林地、防災保安用地、厚生適地
  北向傾斜地、低湿地、急勾配地、鉄道沿線など市街地化不適地
 2緑地地域の配置は市街地の外周及び内部環状、放射状とし、
  公園緑地計画と合わせ系統的にこれを行う
 3緑地地域の幅員は、家屋の連坦防止…0.5km以上、
  市街地膨張抑制…1km以上

・1946年11月(昭和22年) 日本国憲法公布

・1947年12月(昭和22年) 児童福祉法公布
 児童遊園(児童厚生施設)

・1949年06月(昭和24年) 「戦災復興年計画の再検討に関する基本方針」
 広幅員街路の幅を概ね30M以上に変更
 公園緑地は児童公園、近隣公園を重点に置く
 土地区画整理事業は、交通消防防火上憂慮される地域に施工

・1949年06月(昭和24年) 国民公園として皇居外苑が開園

・1949年(昭和24年) 出生数が最大となる(ベビーブーム)
 出生数269万6638人(2007年の2.5倍)
 団塊の世代

・1950年(昭和25年) 公園緑地計画の全面改定
 鉄道沿線、街路沿い緑地の廃止

・1951年(昭和26年) 「児童公園標準計画案」
 内山正雄
 震災復興公園を基とする

・1954年05月(昭和29年) 「特別都市計画法」廃止

・1956年4月(昭和31年) 都市公園法公布

・1957年6月(昭和32年) 自然公園法公布
 国立公園法の発展的解消

・1957年(昭和32年) 「遊び場研究会」発足
 池原謙一郎(建設省)
 北村信正(東京都緑地部)
 小川信子(当時東京大学研究生、のちの日本女子大学)
 石川岩雄(東京都公園緑地部)
 川本昭雄(東京都公園緑地部)
 伊藤邦衛(清水建設設計部)
 田畑貞寿(日本住宅公団)
 他

・1959年(昭和34年) 東京都台東区「入谷町南公園」開園
 「遊び場研究会」の活動による
 「入谷町南スタイル」として全国の児童公園で模倣される
 大型滑り台、トンネルを備えた築山「緑の山」
 お椀型の「石の山」
 コンクリート壁に穴を開けた「くぐり壁」
 ヒューム管トンネル
 鉄製くぐり柵
 平均台
 コンビネーション遊具
 変形ジャングルジム
 砂場
 ステージ

・1964年(昭和39年) 東京オリンピック開催
 競技会場を主体とした公園の整備
 裏参道の首都高速道路用地への転用

・1964年(昭和39年) 「こどものあそびば」発刊
 当時北欧で流行していた「プレイスカルプチュア」の紹介など

・1966年(昭和41年) 「東京遊び場対策本部」設立
 こどもの遊び場および遊び場に関する実態調査

・1968年6月(昭和43年) 都市計画法公布

・1969年05月(昭和44年) 市街化区域・市街化調整区域の設定
 緑地地域の廃止
 法律用語としての緑地の終焉

・1970年3月(昭和45年) 日本万国博覧会(大阪万博)開催

・1972年3月(昭和47年) 万国記念公園開園

・1993年6月(平成5年) 都市公園法施行令及び同施行規則の改正
 児童公園を街区公園へと名称変更
 ぶらんこ・すべり台・砂場等遊戯施設設置の義務付けを廃止

・1995年7月(平成7年) 製造物責任法施行


●むすび


明治期。欧米との対等な立場を目指して、日本は国家の近代化への道を歩みはじめた。
それは法制度・都市計画として日本の街区に「公園」という施設をもたらす。

大正期。震災復興事業として、小学校とともに52の小公園が誕生する。
これが、日本の児童公園の雛型とみなされる。
設置された遊具の選定根拠は不明。しかし、砂場だけは、アメリカのボストンで実現した、パークシステムにおける児童公園に源流を持つ事がわかっている。
社会政策の立場から、都市環境を改善する動きに合わせるように、児童公園はやがて小学校とも切り離されたりしながら、全国の市街地へと出現する。

昭和に入り本格的な緑地計画が実現する。しかし戦後、膨張・拡大していく都市・経済に押されるかたちで溶解していく。
入れ替わるように、児童公園(現在の街区公園)、近隣公園の重点的な配置計画が浮上する。
期を同じくしてベビーブームも到来する。これも、児童公園の数を増やし、遊具の設置を義務づける事となる要因の一つだったのではないかと思う。

教育や厚生の立場から見て、安全な子供の遊び場を確保する事は重要な課題だ。
一方で、美観や風致の観点上、遊具の混在が好ましくないという意見にも理がある。
遊具のモニュメント化、遊具以外の「何かへの擬装」は、こういった課題に連動した、1つの回答例だと言える。

やがて、出生率は低下し高齢化が進む。「あらゆる年齢層の為の空間」として再定義され、「児童」公園は「街区」公園へと名称を改める。
同時に、都市公園への遊具の設置義務も法的に消滅した。

製造物責任法の施行、財政難にあえぐ行政、風化していく地域コミュニティなど、今日の公園をめぐる情勢はより複雑になっているように思う。
生き残りを賭けて進化し、その形態を変え続ける公園遊具への興味はつきない。


●参考資料


書籍、論文
「歴史文化ライブラリー157 公園の誕生」
小野良平、吉川弘文館

「都市と緑地 新しい都市環境の創造に向けて」
石川幹子、岩波書店

「日本の近代建築 上・下」
藤森照信、岩波新書

「都市公園政策の歴史的変遷過程における「機能の社会化」と政策形成」
申龍徹、法学志林

「学校文化の伝達装置としての公園-運動場と公園の遊具を手がかりに-」
小阪美保

「関東大震災と学校の復興--東京市の復興過程を事例として」
小野 雅章、日本大学文理学部人文科学研究所
http://www.chs.nihon-u.ac.jp/institute/human/kiyou/56/H-056-013.pdf

「1950〜60年代における子どもの遊び場に関する造園家の活動」
小林邦隆/高島智晴
http://star.ap.teacup.com/050625/66.html

「SD選書 日本の公園」
田中正大、鹿島研究所出版会


未見だが、とても参考になると思われる書籍
「日本公園緑地発達史」
佐藤昌、都市計画研究所


WEBサイト
MID-TOKYO MAPS>明治維新とその後(森ビル株式会社)
http://www.mori.co.jp/company/urban_design/mid-tokyo/mtm17.html

都市のバリューを考える会(日建設計総合研究所)
http://www.nikken-ri.com/valueup.html

都市論・まちづくり論/NPO=市民活動論(Made in Y)
http://homepage3.nifty.com/hiro1961/machi/machi0.html

震災復興52小公園(公園記念物の探求)
http://www.geocities.jp/zouenkasyudan/52parks/index.htm

日常旅行日記 まちの近代を探訪中
http://binmin.tea-nifty.com/blog/

国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/

東京国立博物館
http://www.tnm.go.jp/

Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/

Kotobank
http://kotobank.jp/

NII論文情報ナビゲータ[CiNii]
http://ci.nii.ac.jp/ja





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