「歌うたいのバラッド」
〜かっこよすぎるぜ、和義さん〜
1997 斉藤和義

T0P/ MUSIC ESSAY/KINKYO
GUESTBOOK/BACKNUMBERS


 斉藤和義の昨年12月に発売されたアルバム「because」の先行シングル。斉藤和義のシングルとしては久しぶり(の様な気がする)本格的バラード。アコースティックギターサウンドを中心にドラム、ベースとオルガン、メノトロンなど、サウンド的には彼のこれまでのスタイルを踏襲しているので、これと行って目新しいことはない。それは、アルバムにも言えることで、筆者はこの曲の収録されているアルバムを全曲聴いたのだが、アルバム全てを通してもサウンド的な進歩は前作「ジレンマ」からあまり感じられない。
 このシングル、ただ今までの(というか最近の)斉藤和義にはない世界の詞を持ってきている。いわゆる「おいしい詞」というヤツである。

「こんなに素敵な 言葉がある 短いけど 聴いておくれ 愛してる」

とは、ずいぶんやってくれますねえ、という感じである。このように、素で読むと何とも薄ら寒い感じの、かっこよすぎな詞と感じてしまうのだが、斉藤和義が唄うとなかなかどうして、かっこよすぎなハズの詞がすんなり入ってくるのである。これは、斉藤和義という”シンガー”の、とてつもなく得な部分だと思う。彼は、どんなにどろどろの恋愛の歌、或いはエロティックな歌詞の歌を歌っても、決して油の滴ってくるようなくどさがない。アブラギッシュでなく、常に淡々と、切々と唄っている。かといって、無機的なわけではない。伝える、という表現が非常にぴったりくる。彼の非金属的な、朴訥とした声が、こうしたかっこよすぎな詞をかえって効果的に伝えている。
 こうした歌を、「詞がかっこいいから」といって、「歌がうまい」と人からもてはやされるような人がカラオケで唄う、これこそ危険以外の何者でもない。一般に歌のうまい人は、こうした歌を歌うとギラギラしてしまう。これでは中年オヤジが「歓迎されかねる加山雄三」をワカモノの前で披露することや、最近の歌を妙に「慣れきった」歌唱法で唄う「ヒッパレ」に出演中の売れなくなった庄野真代や尾藤イサオと同じである。スガシカオや奥田民生の歌(もっともタミオの歌にはそうしたストレートな歌は少ないけれど)も同じ。ギラギラするとみっともないことになるのである。斉藤和義だからこそ、この曲の歌詞は生き、聴く人を感動させうるのである。
 「because」について少し述べておくと、前述の様にサウンド的に進歩はないと言っていい。また、気になるのは歌詞が依然として内省的な傾向が強いことで、とくに1曲目の「ジユウ ニ ナリタイ」にその傾向が見られる。セルフレコーディングということもあるのだろうが、そろそろこの路線も煮詰まってきたのではないかと思う。しかし、前作に加えて(別れの歌が多いとはいえ)ラヴ・ソングが多くなっているのは、昔からのファンとしてはうれしいところかもしれない。ドライヴ感は日本人アーティスト随一、”ロックの揺れ”を感じることが出来る数少ないアーティストとして頑張って欲しいものである。


ぶんせきは
KENTARO