「感受性応答セヨ」 (12/21)
Eastern Youth 2001
T0P/KINKYO
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シャウトってなんだろうか。なぜ、叫ぶのだろうか。朗々と唄う人がいる、掠れるような声で絞り出すように唄う人がいる、腹の底から声を出す人がいる、喉だけで唄う人がいる。それと同じように決して叫ばぬ 人がいる、サビの度に叫んでいる人がいる。イースタンユースのこのアルバムは全編に亘ってサビになる度にシャウトを聴くことになる類いのものである。僕は比較的キレイ目というか、ノイジイな音楽は苦手な方であった。だからイースタンユースのこのアルバムを聴く前に彼等のライヴ映像や写 真を見たりする上で、ちょっとしたマイナス方向の先入観が働いていたことも事実だ。それなのになぜこのアルバムを手にとり、聴こうと思ったのか、いろいろと理由がある。
興味の発端はそのインパクト強く、かつあか抜けない三人のルックスである。ヴォーカルの吉野のスキンヘッドに眼鏡というルックスはセンターに立つ時は立つけれどもいっぽ間違えると色物的な方向にいってしまいがちな、いわば崖っプチの風貌である。しかしながら恐いもの見たさというと失礼だがそういうルックスの吉野がライヴの映像の中で激しくギターを弾き、叫び、跳ねる様を見て少なからず衝撃を受けた。そこには言い様のない恐ろしいばかりの存在感があったからだ。ぜひディスクに記録された彼等の姿と一度じっくり向かい合ってみたいと思った。
もう一つの興味の発端、それは彼等の曲のタイトリングである。先行シングル「踵鳴る」やアルバムのタイトル「感受性応答セヨ」をはじめ、タイトルにも歌詞にも日本語がフィーチュアされている。ブレイクして以降のエレファントカシマシにも通 じるもののある和風チックなコトバの遣い回しには僕はけっこう弱い。そしてそれらの日本語は、シャウトによく似合っている。やはり日本人ってものなのだろうか。日本人のアーティストがシャウトする言葉はやっぱり日本語が良く似合っているような気がする。英語の歌詞をシャウトすると、どうにも字余り感がぬ ぐい去れずに座りがよくなかったりする。
イースタンユースは3ピース構成のバンドである。3ピースのバンドのアルバムは時として最後まで一気に聴くのに耐えないものが多々ある。単一のリズムの押し付けや似たようなリフ、そういったものが続いてしまうとどうしてもその先へ続けて聴こうといういう気は失せてしまう。残酷なものだが、構成する楽器の数、音の数が少ない程演者の音楽的な引き出しの多さが露呈してしまうものなのだ。そしてそれの少ないものは単なる奇抜さやノリに逃げる。ワンパターンでもかまわない。音を聴いた時にそのバンドだと分かる、別 に音数や奇をてらったアレンジメントがなくても聴き手をそう思わせたら勝ちだ。もっともそれは、多くのバンド、多くの種類の音楽が出てきてしまった今3ピースで実現するのは難しいが。その点イースタンユースを聴いてみるにあたって心配だったのだが、結果 としては見事に覆されてしまった。リズムの早さやヴォーカルの吉野の声、それぞれの楽器の音は同じなのに、各曲で見事にそれぞれの色が出てきている。最後まで聴けた。とくにそういった工夫がドラミングにあらわれている。各曲においてドラムの存在感が非常に高く、かつヴァリエーション豊かなリズムを聞かせてくれる。時には重く、時にはドライヴ感いっぱいに楽曲のカナメとなっている。
特にM1の「夜明けの歌」。少ない音数で夜明けの感じがまるでアレンジのお手本のように良く出ている。若干古めかしいメロディーラインもこの曲のキャラクターにぴったりだ。M5「踵鳴る」のドライヴ感も秀逸。シングルとしてカットするにはアグレッシブすぎるとも思えるイントロからゆったりとした、しかし力強い吉野のシャウトがかぶさる。それらに限らずすべての曲にメリハリがあって、濃いアルバムでありながら案外聴きやすくできているのもいい。シャウトというのはヴォーカル吉野の、もっというとイースタンユースの大きなキャラクターであり、存在感ではあるけれども、ありがちな全面 シャウトのノイジイさとは対極だ。メリハリや音楽性に裏打ちされたアレンジメントがあってこそ、シャウトも生きてくる。吉野が叫ぶ箇所は、確かに歌詞カードを見ずして歌詞は聞き取れないかも知れない。しかし様々な要素によって引き立てられたシャウトは、言葉を媒介とせずに伝えたいことを直に伝えてくる、そんな気がする。パワーのつまった良いアルバムだ。
ぶんせきは
KENTARO