「natural」 綾戸智絵 CONCERT TOUR 2000 IN 山梨(10/27)
綾戸智絵 2000
T0P/KINKYO / BACKNUMBERS /


その昔、僕がまだ小学生くらいだった頃、「コンサート」といえばうるさいもの、と相場が決まっていた。べつにそれはネガティブな意味だけで言っているわけではない。今日日のライブでもそうだが、とにかくある程度の楽器数を擁するバンドの場合、バックの音が大きすぎて、ヴォーカルがちっとも聴こえない、という風なのがたいがいである。そうして、夕方ちょっと遅く始まったコンサートを聞き終えて、家路につくべく会場を出ると、つうんと、まるで高い山に登ったときのような、耳の違和感を覚えるものだ。僕は生まれてはじめてコンサートというものに行った5歳くらいのとき(それはたしか郷ひろみか西城秀樹のものだったと思われる)、その耳の違和感を体験し、「なにかイケないこと」をしているような、そんな気がしたものだった

物心だか色気だか知らないが、とにかくそういうものがつき始めた頃、僕は世のバンドブームとか言う趨勢にいったんはとびついたもののものすごい速さでさめてしまった。それは、ヴォーカルが聴こえずノリだけでやり過ごす(あとからそればっかりではないということに気づいたがその当時はそう思えた)のに辟易したからだ。いや、ライヴはいい。聴こえなくても盛り上がっている。しかしライヴアルバムやビデオは事の他、悲惨である。きちんと音を拾うことの出来るマイクロフォンやピックアップの技術の発達が、ある意味恨めしいものになってしまっているような気すらする。

そういうこともあってか、僕はライブ・アーティストというものを尊敬する。技術の粋を尽くしたレコーディングの賜物であるCD以上のサウンドを、ヴォーカルを聴かせる事の出来るアーティストというのは、心からの尊敬に値すると思う。 綾戸智絵のライブを観てきた。ひとことで終わらせてしまうと、すばらしいライブであった。久しぶりに「ライブが勝っているミュージシャンに会った」気がする。セットリストについては、このツアーがまだ中盤を迎えていることと、そんなものを記録する余裕すらなかったことを理由として挙げないでおくが、彼女のヴォーカルは、多数の人々を前にしたとき、さらに魂が入るような勢いだ。ジャズという垣根も感じられない。何より素敵なのは、来場者の年齢層がきれいにばらけていること。これは日本のコンサート会場の風景として、非常に稀なことであると思う。しかしそれを、綾戸はその懐の深さをもって、包み込んでしまう。彼女の唄う唄は、ビートルズやクラプトンも交え、洋楽をあまり聴かない人でさえピンとくるものがいくつかあるほど、曲目だけ見ると俗っぽいのだが、しかしだからこそ、彼女の声に、ピアノプレイに焦点が当たる。そして観客を魅了してしまうのだ。

もうひとつ、とても素敵だなと思ったのは、綾戸の「聴いてもらいたい・感じてもらいたい」の姿勢だ。自分の奏でる曲を、なんとか聴き手に理解してもらおうという姿勢だ。僕は、洋楽のイントロをピアノで奏でながら、これから唄う唄の歌詞の世界を、いちいちくだけた日本語で、懇切丁寧に解説するミュージシャンははじめて見た。これは、一歩間違えると非常に興ざめさせる行為にもなりかねないのだが、綾戸の伝えたいという思いが、それを無粋にさせないのだろう。新鮮な、驚きであった。

コンサートの冒頭、彼女はMCのなかで、「綾戸のコンサートにきた人たちは、みんな帰り道で幸せそうな顔をしている」と言った。自分でまあよう言うわとそのときは思ったのだが、会場を後にする頃、幸せそうな顔をしている自分がいた。それに気がついて、それでもバツが悪くならない、「natural」ですばらしいコンサートだった。



ぶんせきは
KENTARO